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学校時代の野球部の思い出 [スポーツ]

こんにちは!

埼北ギターリストです。

野球部には、中学校と高等学校で入部した経験があります。
しかしなが、体力的な問題と進学の勉強のためかレギュラーに
なるまえに途中で辞めてしまったという苦い思い出があります。
中学校でも高等学校でもいずれも進学校だったので野球部は
それほど強くもなく、大体が1回戦で負けるようなレベルでした。

中学校での野球部活動については、本当にあまり記憶がありません。
でもいまから思えば、それなりに当時は173cmの伸長が
ありましたので投手として顧問の先生から期待されており、
厳しく指導されていたのではないかと思われます。

前回の記事で体育の先生からソフトボール投げで体力測定を
した時に「なぜ野球部を辞めたのか?」というように怒られた
ということは顧問の先生が私に期待していたのであろうか?と
今では思います。

この年になって今更ながらに思うことは、先生が「もっと腕を振れ」
と言っていたことを時々思い出します。
いまなら理屈が分かるのですが、腕をで最大限思いきり振るという
ことで速い球が投げられるという意味だと分かりますが、
その当時は全く意味が理解できていないので面白くなくなって
結局、野球部を辞めてしまいました。

投手は、寿命が短いのは、腕と手首を酷使するからだと思います。
腕の振る速度と手首の使い方で速い球と変化のある球を投げられる
という理論が分かりますが、その当時は全く分かりませんでした。

その当時から理論的に物事を理解するタイプだったのでしょう。
理論的に説明されれば、本当に立派な投手になっていたかもしれませんね。
もう一人の投手のライバルがいましたが、今から思えば、彼は
腕の振りが速くてコントロールは物凄く悪かったですが
結構、球速のあるボールを投げていました。

野球部は辞めてしまったので、彼と会ったのは神戸市の図書館の
なかでたまたま席を隣り合わせることになった時でした。
二人とも同級生で高校生でしたから、何か良く覚えていませんが
勉強を教えたようなイメージが残っています。

高等学校は、県立高校では、進学校で大学進学率トップの高校で
神戸高校でしたが、灘校はそれほどまだ東大進学数が大きくなかったので
それなりに有名で、帽子をかぶって街を歩いていると
すれ違った人が振り返るくらいでした。

でも進学校ですから試合には勝てなくて大体が1回戦で負けていました。
それでもレギュラーになるには、やはり中学校で野球部で活躍した
という実績がある方が早いですね。
投手希望でしたが、中学で実績のある投手が入部したので
全くレギュラーにはなれずに2年生で辞めてしまいました。

進学のための勉強も理由の一つですが、やはり、休みなしの
練習に耐えられるだけの体力がなかったことが
一番の理由だったかもしれません。
いわゆる疲労体質でしょうか、疲労が蓄積していき徐々に
体がだるくなり何にもできなくなってしまうのです。

結局、途中で辞めてしまい心残りがありました。
でも野球部で教わったことは、体に身についていることがあり、
草野球では、非常に役に立って、飛び入りであちこちの公園で
野球を楽しみました。

高校の野球部の先輩は、体力と気力も充実していたのでしょう。
結構有名な大学に進学している人が多かったですね。
私が野球部を辞めてその後に入部した同級生も一流の京都大学
に合格していましたから感心したものです。

野球部も直ぐに辞めてしまいましたが、思い出に残る試合が
2つあります。
1つは灘校との練習試合で、確か勝利したような記憶があります。
私は、2塁の審判をしていました。
審判の経験は、自分の性格を変えるきっかけになったような
気がしています。

私は、親父が警察官だったこともあり、結構抑圧されて育だち、
自分の意見を全く言えないタイプでした。
今でも何かのプレッシャーがあるとその時のトラウマがあり、
周りの人間が吃驚することがあるくらいです。

今では余計なことを言いすぎるくらい、オープンでフランクな
イメージの性格ですが当時は全くの引っ込み思案でした。
灘校での塁審の経験が、集中力を高めて自分をはっきりと出す
というきっかけになったような気がします。




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もう一つは、東洋大姫路との甲子園での試合です。
兵庫県の県大会ですからできるだけ近場の球場で予選をしますから
たまたま抽選で甲子園球場で試合をすることになったのです。
1年生だったのでベンチで道具を片付けたり、球審にボールを
渡したりする役目しかさせてもらえませんでした。

その当時でも打撃には自信があって、部内の練習試合でも
打率が非常に良く、先輩からも「お前は、バッテイングだけは良いよな」
と言われていましたが、守備がまだまだでレギュラーに
してもらえなかったのです。
ましてや投手希望で認められていなかったので
中途半端な立場だったのですね。

あの時の甲子園の試合で代打であればヒットを打てたのにという
気持ちはいまでもあります。
でもいい試合でしたが、強いチームは接戦になっても最終的には
矢張り勝ちますね。

東洋大姫路の選手たちは、すべて伸長も体格も良くて
大人と子供の違いぐらい大きな違いがありました。
その経験以降ですね、
東洋大姫路が全国的に有名な野球強豪校になりました。




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